2017.7.24 続・シマガツオ

前回の続きでシマガツオの話です。
今回はだいぶ長いのでご了承ください。

この魚の標準和名はシマガツオですが、なぜかエチオピアという通称があり、その名のインパクトから人々には「エチオピア」で認識されていることが多いようです。
なぜそんなあだ名がついているのか?
エチオピアで大量に漁獲される魚なのかと思って地図を見たら、エチオピアには海がありませんでした。

そこで本やホームページで由来を調べたところ、
「1935~37年にエチオピアから皇族を含む使節団が来日した時、相模湾でこの魚が大漁だった。当時、日本とエチオピアは友好関係を深めようととしていた時期でもあり、そこからこの魚がエチオピアと呼ばれるようになった」との説が有力なようです。

なんとも、安易で短絡的で大雑把なストーリーです。
今から80年ほど前、「シマガツオが大漁だ!ちょうどエチオピアから国賓が来てるぞ!よし、この魚をエチオピアと呼ぼう!!」といってこの名が広まったというわけです。

意味がわかりません。
しかし、現実にシマガツオはエチオピアと呼ばれ、近縁には「チカメエチオピア」や「ツルギエチオピア」など、標準和名の中に組み込まれている魚さえいる程、このエチオピアという呼称は漁師、魚屋、学者、などの魚関係の世界に浸透しています。
とにかく何か、魚(シマガツオ)と国(エチオピア)を結びつける事態で、それも大衆一般に違和感なく受け入れられる事実があったに違いありません。
気になるので調べているうちに、面白いものを見つけました。

高知県の和菓子屋が「エチオピア饅頭」なるものを販売しており、これはちょっとした名物であったらしいのです。
この饅頭は第二次世界大戦の前からあり、しかも1996年には在日エチオピア大使館公認のお菓子となっています。
この饅頭は製法や材料は和菓子のそれで、エチオピアの風土には全く関係ない純然たる和菓子でありながら、名前にエチオピアと冠しているのです。
なぜ?と名の由来を見ると
「1935年にイタリアがエチオピアに侵攻した。
強力な軍備を備えたイタリア軍に対し、エチオピア軍の装備は貧弱なものであったが、兵士は勇敢に戦った。
このニュースを知った和菓子屋の店主が、応援の意を込めて、それまで別名で売っていた饅頭をエチオピア饅頭と改名して売り出した」
ということでした。
この和菓子屋さんは2013年に閉店してしまいましたが、それまでエチオピア饅頭は看板商品であり、1935年から80年近くも愛されてきたわけです。
饅頭とエチオピア。なんの関係もないけれど、その名は普通に受け入れられることがこれでわかりました。
シマガツオがエチオピアと呼ばれるようになったのも、この饅頭と同じような流れなのだと思います。
そもそもこのシマガツオ、現代においても漁獲は少なく、したがってあまり流通することはなく知名度はかなり低い魚です。
しかし1930年代に、なんらかの理由によって群れが沿岸域にまで寄ってきて大漁ということがあったのでしょう。

1930年代の相模湾においてこんな会話があったのかもしれません。
漁師A「見たこともねえ魚が大漁だ!なんかの前触れか!?」
漁師B「う~ん、そういえば新聞で見たがエチオピアから皇族がいらしてるらしいぞ!」
漁師A「そうか、この魚たちは皇族の方々をお慕い申し上げて、エチオピアからついてきたにちげぇねえ!」

消費者「この魚は何?」
漁師「名前は知らねえが、エチオピアから来たに違いねえ。」
消費者「エチオピアから!?」
漁師「おうよ!エチオピア!!」
そんな問答が幾度も繰り返され、学者以外にはエチオピアという名が定着したのではなかろうか。
大漁の魚を皇族に結びつけるなど現在では一笑に付されて終わるでしょう。が、1930年代といえば第二次世界大戦がはじまるちょっと前くらい。かなりの科学力はありますが、一地方に目を向ければまだまだ牧歌的な世界が広がっており、このような迷信じみた話も受け入れることに抵抗はなかった時代だと思います。
以上、私なりにシマガツオがエチオピアと呼ばれるようになったわけを考察してみました。

実は本に書いてあるシマガツオの大漁時期と使節団の来日には数年のズレがあり、上に書いた会話は時系列がおかしくなります。
しかしまあ細かいことは抜きにして、実際にもこんな感じだったんではないでしょうか。
そういえばこの魚、ちゃんと食べました。なかなかおもしろい味でしたが、その話はまたいずれ。